何度描いても焼いても、納得できず仕舞いの雛罌粟。
昨年の3月初めにご近所からいただいた雛罌粟の小さな苗が、真っ赤な花を咲かせて南西の庭を席巻していたのは、忘れもしない昨年の5月でした。梅雨前の濃密になりつつある緑に染まる庭に、毒々しいほどの赤い花の圧倒的な存在感です。これがアグネスチャンが歌った、恋を占った花だったなんて想像ができません。大きな花に太い茎、縦横に勢い良く広がるとげとげの葉、そして花びらが散った後の、愛嬌たっぷりの実の姿などをなんとか描きとめたくて、織部のカップや黄瀬戸のお皿に、最後は何時もの椿の飴釉の方法まで使って、描いてみたものの納得できるものにならず、焼き上がるたびにがっかりしたものでした。
そして左の写真がそれです。ただただ雛罌粟の絵姿を描いただけで、あの驚きの印象がありません。体の中心をガッツと捕まれたような、圧倒的な存在感が表現できていないのです。貧相で貧弱で恥ずかしいほどの30cmのお皿を、自らへの戒めとしてアップしました。
お抹茶茶碗に半分ほどできた何千何万の罌粟の種を、秋の終わりに庭中に蒔きました。これがもしも咲いてくれたら、50坪ほどのアトリエの南西の庭中が雛罌粟だらけになるでしょう。そして罌粟栽培農家の様になってしまいそうです。その花の中で花に埋もれながら、スケッチからまた始められたらと、今寒い東京で思っています。
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